入院3日目に38.4度の熱が出ました。

 2月22日(木)に入院後、3日目の土曜日午後に熱が出ました。

 入院当日から、部屋が寒いなあと思いました。

 母が寒がりなので、自宅の部屋は、エアコン24度設定でしたが、ヘルパーさんが「この部屋温かいですね。」というくらい温かく保っていました。そのために病院が寒く感じるのかな。入院当日は、診察、レントゲン等で、薄い病衣になることが多く、しばらくして本人も「寒い」と言い出したので、持参した電気毛布をつけました。広い4人部屋で21度設定でしたが、臭い対策のためか常に換気扇がオン、おむつ交換の際は窓を細くあけるためか、私も脱いだダウンジャケットを着るくらいの体感温度。でも同室の患者さんはそれで元気にしていらっしゃるので、そのうち慣れるかと思っていました。熱がこもらないように電気毛布は弱設定。ケアワーカーさん(介護士さん)に、「寒いので、電気毛布かけていいですか。」というと「いいですよ。」と、「あエアコン消えてました。つけておきますね。」日中はエアコンを切るらしいです!

 電気器具の使用は、1日108円の電気代を払うことになります、とのこと。それはいいけど。

 土曜日は、朝から眠そうでした。9時過ぎに行ったら浣腸したとのこと。

 午後も行ったら熟睡。浣腸で疲れたかなと思い、ベッドサイドで読書。午後3時に検温。38.4度で看護師さんもびっくり。計測しなおしても同じ。血圧は133-78.電気毛布にくるまれて熟睡していたので、熱がこもったかも。電気毛布を看護師さんが切り、氷枕をあてる。

 3時30分には37.8度に。

 氷枕は冷凍された硬いものだったので、母は首がすぐ痛くなるので、はずしてしまいました。

 面会時間は20時までなので、7時30分くらいまでいて帰りました。

 金曜日に帰るときは、「おやすみ」というとああそうかという顔になり(入院してることがわかってる?)「気をつけて。」と言ってくれた。母から気をつけてといってもらうの久しぶりで、嬉しかった。

 土曜日に帰るときは「おやすみ」と言って手を握ると「一緒に寝るかね?」と聞いてきた。「そうはいかないから帰るね。」と言うと、「おやすみ」と言ってくれた。

 夜に病院から電話が来るかとどきどきしたが、来ず、日曜日の朝言って、聞くと熱は下がりましたとのこと。よかった。

 日曜日は電気毛布は切ってあり、室温は、今までより温かくなってました。

 入院初日と2日目は、面会時間ぎりぎりまで、かなり長時間病院に詰めました。母が右肩が痛いことや、首が弱いことなど、場面場面でお伝えしました。 

 例えば、初日のレントゲン検査はベッドからストレッチャーに看護師さんがお姫様だっこで移動させました。検査から戻った時に「母は首が弱いので」とお伝えしました。看護師さんが「痛かった?」と母に聞くと、母が「うん」とうなずいたので、看護師さんもわかってくれました。記録をして、スタッフがわかるようにしてくれました。

 これまでの入院から、患者本人が伝えられないことは、家族が伝えないと全くわかってもらえないと思ったので、気が付いたことは遠慮しないで言うことにしています。

 

 

 

 

無事療養病棟に入院しました。

 予定通り、2月22日(木)に介護療養病棟に入院しました。

前々日から、夜に38度の発熱があり、前日にも37度台後半の発熱がありました。母本人が、不安がり、受診を希望しました。前日の水曜日朝に、病院に電話し、1日早く入院できないか、確認しましたが、無理ですとのお返事。

 1日待って入院しました。

 持ち物に忘れ物がないか気を使い、当日の朝ももちろん胃ろうに栄養と薬を注入し、機器をミルトンで消毒し、痰を吸引しと、感傷にひたる時間もありませんでした。

 いつものタクシー会社がストレッチャーが壊れたとかで、初めてのタクシー会社で病院に向かいました。厳寒の日で雪がふわりと積り、タクシーが停車する場所と、ストレッチャーの通り道を除雪。なんとか病院にたどり着きました。

 着いた後は、福祉相談員の方とお話し。お医者さんの診察の後で、お医者さんとお話し。

 母に、「お医者さんも看護婦さんもいるし、大丈夫だよ」と伝え、母も安心したようで、ほっとしました。

 初日に感じた療養病棟と急性期病棟の違いはまた後日書きます。

 決めるまでに、とても悩んだのですが、よいところへ入院できてよかった。

 やはり、母の命を背負っているというのは、重かったです。いくらヘルパーさんが来ても、訪問看護師が来ても、違います。入院して初めて、自分が相当緊張していたことを実感しました。買い物に出ていても、寝ている母のことがいつも頭にありましたから。

 日本の制度に感謝です。

 6カ月という介護休暇が半分ほど過ぎた頃から、休暇が終わったらどうすればいいか悩みながら過ごして、苦しかった。離職して、ずっと母のそばにいたいという本音がいつも底にありました。でも、入院が決まってから、母が私に介護させてくれたのだと、心の底から思えるようになりました。

「お母さん、下手な介護だったけど、介護させてくれてありがとう。」と。

 

 

 

母が「何かお手伝いできることないかと思って・・・」と言います。

 昨日は朝イチで、母が「何かお手伝いできることないかと思って」とにこにこしながらいいました。

毎日「おはよう。」というと「おはよう。」と返してくれたのですが、新パターンです。

「ありがとう。後でおねがいするね。」と返事をしました。

 朝、お顔をふいて、退院時に皮膚科から処方されたローションを塗ります。コットンでパタパタしながら、「お母さん、お顔昔から色白できれいだったものね。今でも、きれいらよ。」というと、照れます。ふと思いついて、「口紅でも塗りましょうか?」というと、「恥ずかしい~」といって、おほほと顔をしわだらけにして笑います。

 さて、昨日の午後、5年分の年金が2月15日に振り込まれたのを受けて、源泉徴収票が届きました。「確定申告等にご利用ください。」と記してありました。確定申告!3月15日までじゃん!5年分の年金の所得税を一気に払うの?住民税も上がる?と一瞬のうちに頭を駆け巡り、すっかり気が動転していました。

 遺族年金との差額の返還もまだ終わっていないし、どうすればいいんだと、それからはきもそぞろ。思い余って年金事務所に聞いてみましたが、とても丁寧に話を聞いてくれました。年金事務所も変わったなあと親切さに感謝。結論は、まだ共済組合の方から連絡がないので、差額もわからないので、わかりかねますとのこと。遺族年金は、非課税になってます、とのことは、わかりました。

 ざわざわした気持ちの中、夕方と夜を過ごしました。文字通りめまいがするので、最低限の家事をしたあとは、ベッドで休憩。10時ごろ入浴中に、突如「今年の2月に振り込まれたのだから、確定申告は来年でいいんだ!」とひらめきました。

 ほっとするやら、頭の回転の悪さにがっかりするやら。

 でも、救済された年金が5年分入ったら、所得税はかかるのかしら。1年分をみれば、非課税になる金額です。

 来年まで調べるじかんはあります。気が楽になりました。

ここからは、母の様子。一昨日は、夕方から不穏。なにかぶつぶつ言っていますが、聞き取れません。「ほら隣の人」と言ってベッドのわきを指さしたりします。

 あまり何か言っても、届かないので、部屋からでました。

 10時30分頃おむつ交換に行くと、ぐっすり眠っていますが、汗をかいています。37.9度。夜これだけの熱を出すのは、初めてです。部屋の温度を下げ、ふとんをはいで、わきにケーキの保冷剤をいれます。

 30分後保冷剤をとり、そのまた30分後計測したら、36.8度に下がっていました。

 体調が悪い時に、わけのわからないことをいう傾向がありますね。体と精神は関係ありますね。

 

昨日の母の言葉

毎日、何回か「どこか痛いとこなあい?」と聞きます。

これまでずっと、「痛いとこない」とにこにこして答えてくれていました。

「痛くない。」とは言っていますが、今日は、表情が晴れやかではありません。

「どこか悪いところある?」と聞きました。

笑顔がないまま答えません。

「どこか悪いけど、どこだかわかんないの?」というと、うなずきます。

自分の体調がよくならないことに、気がついたって感じです。

「大丈夫だよ」と励ましました。

2月になって訪問入浴を始めて、寒い戸外に出る必要はなくなったけど、毎週行っていたデイサービスに行かなくなり、「あれ?」「もしかして私具合悪い?」と思い始めたのかもしれません。

不安がいっぱいかもしれないと思います。

ここにきて衰えが急速に進み、四肢も両腕しか動かなくなりました。自分でも、病識というか、自分が病み衰えているという自覚がでてきたのかもしれません。

不安なく、安心して過ごしてもらうには、どうしたらいいのか。

今日は、手をなでたりしながら、できるだけ一緒にいる時間を長くとりました。

 

夕方は、久しぶりに、家に帰る発言がありました。

4時過ぎに、「そろそろ夕飯にしようか」と言うと、「夕飯の前に帰ろうかと思って」と言います。「食べてからにしようよ。」と言うと、「そうしようか」と言ってくれました。

夕食後、「今日はここに泊っていって」と言うと、すなおにうなずいてくれました。

以前は、「泊っていく」と言った後も、「迎えがこないね。」と何回も言いましたが、最近は言いません。

2016年4月に転倒を機に、我が家に同居するようになった母。2度目の入院後は、ここが、家だと思ってくれていません。

でも、私が育った家に帰りたいのではなく、自分が生まれ育った家の地名を言います。

叔母に言ったら、祖母もおなじだったとのこと。

ああ、そうなんだ。と思いました。

愛しまれた幼年時代に戻りたいんだね。

落ち込む日々に温かい励まし

 昨年12月から、3月からの復職に向けて施設見学に行ったり、悩んだり苦しい日々を送っています。

 母の介護にエネルギーをとられて、他の家族にはちょっと手が回らなかったりして。

 昨日は、土曜日だが、娘は模擬試験のため登校。弁当を作り、娘を起こした後で、制服のシャツが昨夜洗ってまだ洗濯機のなかにある!ことに気がついた。 2枚しかないけど、昨夜は2枚まとめて洗い、すっかり忘れてた。かわいそうにそのまま着させた。しかもソフトモードだから脱水も軽くしかしてないことに、娘がでかけた後気づく。イマドキの若者だから「クソだ」とか言われ、すっかり落ち込んだ。

 年齢のせいか、それとも認知障害か。最近、ほんとに忘れることが多い。落ち込んでると頭が回ってないと自覚することも。うつ状態か。

 そして、入院したら、母はきっと寂しがって、認知症が悪化するんじゃないかなどと悪い方へ悪い方へと考えがいってしまう。

 そんな中、今日のヘルパーさんが母に聞こえない場所で、「うちの父もあの病院入ってるんですよ。いい病院ですよ。」と言った。

 パーキンソン病で、グループホーム誤嚥性肺炎→急性期病院→経鼻栄養→現在の病院という経過だそうだ。しばらく安定していたが、経鼻栄養が入らなくなり、今は点滴で栄養補給しているそう。「だから、いつ急変の連絡があるかとドキドキしてるの。」

 「看護師もいい人ばかりで、すごくよくしてくれる。」とお聞きし、気持ちが楽になった。

「いい病院だから、大丈夫よ。」

「お見舞いに行ったら、必ず、看護師さんに『どんなですか?』ときくといいよ。ただスーッと行ってスーッと帰るのよくないよ。そうすると、熱がでてとか、よくなったから風呂いれましたとか、いろいろ教えてくれるよ。」

 とアドバイスしてくれた。

 ヘルパーさんもいろいろな人が来るけど、その人は、大きな声で、温かい言葉をよくかけてくれるし、だれとでも話せそうな感じ。

 わたしは、だれとでも話せるタイプじゃないけど、母のために頑張ろう。

 ムスメも元気に帰ってきたし、勘弁してくれたようだ。

 みんなありがと。

 

胃ろうにする決断

 母は、2017年7月20日(木)に、夕方5時に39度の熱を出し、救急外来を受診し、重症の肺炎と診断され、入院しました。6月末から、頻繁に、37度台の熱があり、2回ほど、受診しました。その都度血液検査の結果異常なしで、帰宅しました。

 今回は、夕方になり、母本人が「どうも具合が悪いから、」と言い出し、医者に行きたがりました。診断は誤嚥性肺炎ですから、その日に誤嚥したのかもしれません。

 救急の担当医からは、「高齢なので何があるかわかりません。心臓マッサージ、気管切開の希望はどうされますか。」と聞かれました。苦しい延命処置は、しないと私は決めていたので、お断りしました。

 点滴のおかげで、熱は下がり、肺炎も抑えられました。

 24日(月)から嚥下のチェックのために、1日1回看護師がゼリーを食べさせてみるが、むせてしまいました。1口食べられればいい方。

 入院前から、嚥下が悪く、お薬はお薬ゼリーで服薬、みそ汁にもトロミをつけていました。おかゆは好まなくなり、市販の嚥下困難の人専用レトルトを食べていました。

 このままでは、誤嚥をまた引き起こしてしまうと思いました。また父も肺炎で、苦しい思いをしながら、亡くなったこともあり、私の方から、主治医に胃ろうをお願いしました。

 ネットで、嚥下リハビリについて調べ、車で40分ほどの距離の病院が嚥下リハビリをしていると知り、電話をかけましたが、転院は、主治医からの紹介状がないとだめとやんわり断られました。入院している病院の看護支援センターの相談員の方にも相談しましたが、転院はできず、嚥下検査のための紹介状は書いてくれるということでした。

 父は肺炎で2度入院しました。2度目の入院では、2週間以上絶食が続き、その間にどんどん体力がおちていき、口から食べる練習を始めた時には、もう食べる能力が失われていました。そして、中心静脈からの栄養点滴を提案されました。その後さまざまなことがあり、結局亡くなったわけですが、悔いることはたくさんありました。

 点滴で栄養補給するようになれば、もう家には帰れない、もう一度家に連れて帰りたかったことも、胃ろうをお願いした理由です。

 7月29日(土)に主治医からの病状説明。「経口摂取困難。栄養確保が必要。何もしなければ、余命3週間。胃ろうをしても余命2~3年でしょう。」とのことでした。余命3週間というのは、点滴で栄養を補給しない場合のことだろうと、心の中で思ったけど、衝撃的。夫は、胃ろうにはあまり積極的ではなかったけれど、「余命3週間は・・・」と言って消極的に賛成してくれました。

 8月初めに胃ろうを正式にお願いし、8月15日に胃ろうの処置をしました。外科医の先生の関係で遅くなりました。日取りが遅くてがっかりしたことをおぼえています。

 胃ろうの手術後2週間で退院とのことでしたが、けっきょく9月16日(土)に退院しました。

 胃ろうのくわしいことは、また後日。胃ろうにしてよかったのか、もじっくり考えていつか書きます。

 

療養病棟への入院日が決定しました。

2月13日(火)に電話があり、2月22日(木)に介護療養病棟に入院と正式に決定したと連絡がありました。

介護休暇を最大限取得して、3月1日から出勤しなければならないので、ちょうどいいタイミングです。

その後、入院に向けて、準備を進めていますが、心の底では悲しい思いが沈んでいます。どこかに、罪悪感があり、ずっと気持ちをひきずっています。

次回から、これまでの経緯をまとめていきたいと思います。